●カッコいい花を生けようとしていませんか?
“生け花”と聞くと、構えてしまう人も多いようですが、それは、敷居が高いのでは?という誤解に加えて、どこかで、
格好のいい花を生けなければ、という意識が働いてしまっていないでしょうか。
子供は、何も教えなくても、お砂場で要塞を作ったり、お団子を丸めておまま事をして遊び、見た事感じた事を自由に
表現しています。ものを感じる、作るということは、本来、人間に生まれた以上、誰もが持ち合わせている能力です。
それが歳を重ねるうちに鈍ってしまい、臆病になっているのかもしれません。花の声を聞く、花を生けるということは、
その眠っている能力を呼び起こす作業で、本来の人間の営みの一つであり、決してあらたまったことではないのです。
● 今だからアートでない生け花
様々な分野で海外の文化が注目を集め、日本人がそれに傾倒する空気は、今だにありますが、
一方で、混沌とした社会の中、日本文化の繊細さ、独特のバランス感覚、そして精神性が、もう一度見直される時代に回帰しているように思います。
奇をてらったり、人の目を引くことに価値を置くことが芸術ではありません。
「オーソドキシーこそ前衛である」という言葉の通りであります。
1本の花は、人と同じ「命」です。 花に対する考え方は様々で、それに善し悪しは決してありませんが、洗心流では、花をアートの材料として使うのではなく、限り ある命を与えられた人間と同じ、心と個性のある生き物として、向き合いたいと考えています。
己の心眼を磨き、本質を表現する、というところに、単なる「生け花」ではなく、「華道」である所以があります。
●マニュアルを不要にする「感じる力」
洗心流にはテキストはありません。
先述した通り、洗心流は、人が考えた美しさ(「型」等)を主体にして、花をこしらえるのではなく、花一本一本の美しさ・個性が主体となるからです。
それ故、同じ花材を複数の人が活けた場合、お流儀によっては、皆さまがテキストに近い姿に活けられて、好しとすることもありますが、洗心流の場合では、
全員が違った活け上がりになるのが自然ということになります。
もし、テキストが無いと活けられないのでは?と心配する方がいらしたら、それは、職場でマニュアルが無いと身動きが取れない、と心配している方と同様、
「感じる力」が、その不安を手助けしてくれることを思い出してください。
相手をよく観察し、空気を読むようになると、仕事に於ける役割も、例えば子供の資質を見抜く親の視線も、必ず変わってくるものだと思います。
今、世の中で最も必要なものは、相手の気持ちを感じる力かもしれません。
私自身も、生け花を通して「感じる力」を養い、それを花の世界で終わらせるのではなく、皆様と共に、日常生活の様々な場面に生かして行けるよう、
精進して参りたいと思っております。